田の邸宅で写生した。老公は自分はビスマルクに似ていると人がいうと言って居られた。そして額の中央が特に高く隆起しているといって私に触らせてみせたりした。此の銀像は甚だ幼稚な出来であった。大倉男はあまり肖《に》ると機嫌が悪かった。こせこせ写生などするようでは駄目だと言われた。当時蒙古方面の踏査から帰られたばかりで颯爽《さっそう》として居た。私は何と言われても叮嚀《ていねい》に写生して帰って来た。法隆寺貫主には父の宅でお目にかかり、写真をとらせてもらい、其を参考にして油土で等身大の原型を作った。これは木彫に写された時大変違ってしまった。曾《かつ》て帝展に出品されたのがその木像である。貫主のような清浄な、静かな、深さのある人の肖像を自分の思い通りに製作したいなと思いながら、結局父の木彫に都合のいいように作った。父の仕事の下職としては随分愚劣なものもかなり作った。
その年月の間に私はアメリカ行を計画してその資金獲得のために彫刻頒布会を発表したが入会者があまり少くて、物にならずに終った。モデルを十分使って勉強する事も出来ないので智恵子がしばしばモデルになった。彼女のからだは小さかったが比例がよ
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