田の邸宅で写生した。老公は自分はビスマルクに似ていると人がいうと言って居られた。そして額の中央が特に高く隆起しているといって私に触らせてみせたりした。此の銀像は甚だ幼稚な出来であった。大倉男はあまり肖《に》ると機嫌が悪かった。こせこせ写生などするようでは駄目だと言われた。当時蒙古方面の踏査から帰られたばかりで颯爽《さっそう》として居た。私は何と言われても叮嚀《ていねい》に写生して帰って来た。法隆寺貫主には父の宅でお目にかかり、写真をとらせてもらい、其を参考にして油土で等身大の原型を作った。これは木彫に写された時大変違ってしまった。曾《かつ》て帝展に出品されたのがその木像である。貫主のような清浄な、静かな、深さのある人の肖像を自分の思い通りに製作したいなと思いながら、結局父の木彫に都合のいいように作った。父の仕事の下職としては随分愚劣なものもかなり作った。
その年月の間に私はアメリカ行を計画してその資金獲得のために彫刻頒布会を発表したが入会者があまり少くて、物にならずに終った。モデルを十分使って勉強する事も出来ないので智恵子がしばしばモデルになった。彼女のからだは小さかったが比例がよくて美しかった。
彫刻頒布会を発表した頃、日本女子大学の桜楓会から校長成瀬仁蔵先生の胸像をたのまれた。丁度先生はその時永眠せられてしまった。お目にかかったのも逝去数旬前の病床に於いてであった。この胸像はなかなか出来上らず、毎年一個平均ぐらいに原型を作っては壊し、大震災の午前十一時五十八分四十五秒も丁度その胸像をいじっている時であった。その胸像は先生の十七回忌の年にやっと出来上って目白の講堂に納めた。長くかかったわりに思うように良く出来なかったので恥かしく感じた。その時代に中野秀人君や黄瀛《コウエイ》君や住友芳雄君の首も作った。住友君のが一ばん良かった。
今美術学校と黒田記念館とにある黒田清輝先生の胸像は二三年かかって其後つくった。これは黒田先生を学生時代によく見ていたので作りよかった。先生の頭蓋《ずがい》の形の特異さが殊に彫刻的に面白かった。所謂《いわゆる》法然《ほうねん》あたまである。この頃から私もだんだん彫刻性についての自分自身の会得に或る信念を持つようになった。
この胸像が出来てから間もなく、智恵子の頭脳が変調になった。それからは長い苦闘生活の連続であった。その病気をど
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