うかして平癒せしめたいと心を砕いてあらゆる手を尽している期間に、松戸の園芸学校の前校長だった赤星朝暉翁の胸像を作った。これも精神異状者を抱えながらの製作だったので思ったよりも仕事が延びた。智恵子の病勢の昂進《こうしん》に悩みながら其を製作していた毎日の苦しさは今思い出しても戦慄《せんりつ》を感ずる。智恵子は到頭自宅に置けないほどの狂燥状態となり、一方父は胃潰瘍《いかいよう》となり、その年父は死去し、智恵子は転地先の九十九里浜で完全な狂人になってしまった。私はその頃の数年間家事の雑務と看病とに追われて彫刻も作らず、詩もまとまらず、全くの空白時代を過した。私自身がよく狂気しなかったと思う。其時世人は私が彫刻や詩作に怠けていると評した。やがて智恵子を病院に入れてから、朝夕智恵子の病状に気を引かれながらも少しずつ製作が出来るようになり、父の一周忌にその胸像を完成した。それから九代目団十郎の首を作りはじめたが、九分通り出来上るのと、智恵子の死とが一緒に来た。団十郎の首の粘土は乾いてひび割れてしまった。今もそのままになっているが、これはもう一度必ず作り直す気でいる。西蔵《チベット》学者河口慧海先生の首や坐像を記録的に作ったのもその頃である。今年はお許を得て木暮理太郎先生の肖像にかかりはじめているが未完成の事だから多くを語り得ない。

 彫刻家生活をつづけて居て、今最も残念に思うのは、西園寺公の肖像を作る機会を逸してしまった事である。父の生きているうちなら何とか方法もあったと思うのに、今となっては老公も亦年をとられてしまったし、又一介の在野の彫刻家としての私にはどうする事も出来ない次第である。政治家の面貌を見て彫刻的昂奮を感ずる事はめったにないのだが、西園寺公だけは以前から作りたかった。その風貌に深さと味いと豊かさと気品とが備っていて、存分に打ちこんで仕事が出来ると思っていた。公の風貌の日本的、東洋的なものには大きさがあり、高さがあり、こまかさがあり、汲み尽せないような奥の深い陰影があり、世界に示すに足りると思うのである。こういう方の在世時代に自分も生きていながら、ついにその彫刻を作り得ずにしまう事はのこり惜しいが是非もない。こういう類の深と大とのある風貌の人は当分日本に生れそうもないような気がする。中華民国には或はあるかも知れないが、中華民国となると又すっかり特質の違ったものに
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