で、端から部分的に片づけてゆくというやり方はしない。象牙彫《ぞうげぼり》などでは全体にかまわず端から仕上げてゆくというやり方は随分行われるが、木彫では決してそれをさせなかった。
 美術学校が始って私はそこに入ったが、正木さんが校長になって暫くして彫刻科の中に塑造科を設けることになり、今迄一緒にやっていた生徒が木彫科と塑造科に分れた。私は元より木彫の方の生徒である。木彫の生徒は同時に塑造もやったが、塑造科の生徒の方は塑造専門であった。塑造科の方の先生は長沼守敬先生であった。この人は不思議な潔癖家で、自分の説を一寸でも曲げないで直ぐ衝突するから、学校では忽《たちま》ち喧嘩《けんか》をして了った。私の父が調停係になっていた模様だが、最後には到頭学校を辞めて了った。長沼先生は油土をイタリアから取寄せ、油土で原型を拵えるのはその頃から始ったのである。粘土は後になっていじり始めたので、その頃はどんな大きなものでも油土を使った。それを石膏《せっこう》にとってそれから三本コムパスと針とで石などに移すというのが長沼先生のやり方であった。長沼先生が止されてから藤田文三さんが教授になったが、あの人の仕事は、
前へ 次へ
全76ページ中51ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング