何を拵えても同じになって了い、非常に癖のある彫刻で、幼稚で余りよくない。大層如才のない人で、生徒を甘やかして了った。長沼先生は生徒には厳しく仕事も真面目で面白いところがある。学校に遺っている老人の首なども真面目に拵えてある。長沼先生は非常に芸術的良心があるというのか、自分の彫刻などは駄目だというので、日本中の銅像などは皆|毀《こわ》れて了えばいいというような否定的な考え方になって、晩年は彫刻を諦めて了って自然を友として居るのを理想とし、彫刻界と交るのを厭がって居られたようであった。当時の塑造科の人々の拵えていたものは今考えるとサロンの彫刻のようなものだが、その頃はそれが非常に進んだものに見えて、木彫の方は時代に遅れているという気がしていた。
 美術学校を出る頃、私の拵えたものは変に観念的なもので、坊さんが普段の姿で月を見ているところとか、浮彫で浴衣《ゆかた》が釘に掛ってブラ下っていてそれが一種の妖気《ようき》を帯びているという鏡花の小説みたいなものを拵えたつもりで喜んでいた。それから浅草の玉乗などを拵えた。玉乗の女の子が結えられて泣いているのを兄さん位の男の子が庇《かば》っているところ
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