かっこう》など見たところから違っている。従って、それを手に持っての扱い方が異る。それで筋一本削るだけでも流儀によって違って了うから、作風も自ら異って来るのは当然である。実際道具から違うということは、作風の違う大きな理由である。違った流儀の道具を見ると、変な所が丸めてあったり重かったりして何だか馬鹿のように見えるものである。父の流儀のが一番いきですっきりしているように見え、他の人のを見ると削ってやりたいような気がした。欄間を彫ったりする宮大工の小刀の形は全然違って、柄のすげ方も違い、使う時の持ち方も私等から見ると下等な持ち方をする。力が入るようにするのであろうが、そんな風な違うやり方をするということは、非常に忌んだ。「そんなげす[#「げす」に傍点]なことをするな。」と言われたものである。そういう事は凡《あら》ゆることにあった。鑿《のみ》などでも首の厭《いや》に長いものを持つことを厭がる。だから自ら決った道具になって了い、やり方も同じ道具の人は決って来るのであった。流儀というものが出来るのは当然なのだ。いろいろな流儀は、形の上だけのことでなく、生理的に出来て来る。木彫の中にも色々変っている
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