ものがあるが、なる程、ああいうようにやるからああいう風に出来るのだということが見ると夫々《それぞれ》分るのである。

 父からは、前にも述べたように直接弟子が教わるように教えては貰えなかった。私に対しては、手をとって教えるということは元よりない。又作ったものを見て貰うと言っても、いいとか悪いとか言うことはない。余り見苦しいと削って渡されるだけで、何処がどうということはない。改った教育は何もして貰えなかった。ただ為来《しきた》りに外れるようなことがあると怒られた。例えば仕事をしておいて、そのままにして出かけたりすると猛烈に怒られた。「職人というものは何処で仕事をしていたのだか分らないようにしていなければいけない。道具をうっちゃって置くようでは仕方がない。」と叱られた。だから仕事を奇麗にしまわないうちは、他のことは何も出来なかった。仕事の済んだ後の細工場は檜舞台《ひのきぶたい》のように奇麗にして、明日の仕事に備えていた。私は年中細工場にいて、何か始っているとすぐ割り込んで、父が弟子に教えているのを聞いた。
 小刀がどうやら研げるようになると、地紋の稽古《けいこ》をやらされた。地紋は仏師の方
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