うまくない。音曲は祖父はうまかったが父は何にも出来なかったし、私もてんで駄目である。小学校の時に唱歌を教わって、帰って家で歌うと怒られた。そういう中で育ったせいか、曲そのものは解るし、音も頭の中に入っているが、声が出ないのである。だから小学校の時は、先生が弱ってオルガンを弾かせてやっと及第させた。青年になってからも、本郷の中央会堂の椽《たるき》の下のところでやっていた酒井勝軍のもとに通ったりして、発声の稽古《けいこ》などしたが、私には酒井勝軍も驚いた。音は知っているが、それを出そうとすると馬鹿に大きな変な声が出るものだから、酒井勝軍も弱って、君は後でやろうなどということになった。姉も駄目なので、母は「この子は女のくせに三味線がいじれない。」といって、変だと言っていた。そして細工物が好きで、画を描いたり、そんな方へばかり行って了うので、父が気がつき、西町に居た時に十歳前後で画を習わせ初めた。師匠は狩野寿信という人であったが、狩野派のやり方のよいことは、稽古の時に決して悪い材料を使わせないということである。悪いものを使って描いていると上達しないことは事実だ。稽古だからと言って決して悪い材料
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