を使わせないことは、確に立派な方法である。父はその為、貧乏な中に姉に与える材料を買うのに苦労した。姉は絵を習い出すと、めきめきうまくなって、師匠の言うことは眷々《けんけん》服膺《ふくよう》して、熱心に通った。実に師匠思いで、先生から貰ったものは紙一枚でも大切に蔵《しま》って記念にしていた。絵は今遺っているものなど見ても子供とは思えぬような、なかなか確《しっか》りしたものを描いていて、その頃の展覧会などに出して賞を貰ったりしている。冬の日、紫のお高祖頭巾《こそずきん》を被《かぶ》って、畳紙《たとうがみ》や筆の簾巻《すだれまき》にしたのを持って通ってゆく姿が今でも眼に残っている。観音経を覚えて、上野の暗いところを通る時にはそれを誦《ず》しながら歩くと恐くないと語っていた。非常に親思いでもあって、その頃父は丁度四十二の厄年に当って、学校で梯子《はしご》から落ちて肋骨《ろっこつ》を折って怪我をしたり、シカゴ博覧会に出す猿を彫っていてうまく行かなかったりするのも厄が祟《たた》っていると思い、父の身代りになるようにと不動様に願をかけた。それで、不図病気になって、今で言う肺炎になって亡くなる時も、本
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