彦左衛門だと威張っていた。暫く大阪にいて、それから又帰って来たが、兎に角この人が一番古い。それから林美雲は前に述べたように以前は父と兄弟弟子だったが、東雲歿後は父を師匠代りにして来ていた。今はもう亡くなって了ったような弟子も随分いるが、私の知っている限りでは内弟子で余りよくなった人はいない。その中で米原雲海など頭を出している位で、然し米原雲海はもともと出雲にいた時本職大工の旁《かたわ》ら既に彫刻をやっていて相当出来ていた。本山白雲も内弟子の一人だが、あの人は学校に行ったのだし、谷中の時分の弟子の中でよくなった人は殆とない。父はそういう弟子の為に気を配って、古社寺保存の仕事に入れて、仏像台座を削ったりしてどうにか食べてゆけるようにしてやったりした。明珍さんなども、そういう仕事でとうとう奈良でものになった。細谷とか其他の人達もいた。明珍さんは、丹念で非常に正直な人だから修繕ものには実によく、苦労した人だが毒のない飄逸《ひょういつ》な人だったから奈良で人望を得た。弟子の才分に応じて職をやるようにしたのだが、弟子がやってゆけるようにする為に、父自身は随分無理な俗な仕事をしなければならなかったこ
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