とも事実である。弟子が食ってゆく為に小作り位までして来れば、その悪いところを削り直して仕上げをして父の名を入れた。父の作った原型があればそれでいろんな弟子が食ってゆけたのだ。後には父に見せないで名前を入れて出した人もあるが、父は太っ腹なところがあって、「結局いいのだけが俺のになるのだ。」と言って何とも思っていなかった。そんな風だったが、金には縁がなく年中苦労していた。後々までそうで、晩年は父の作品も相当高くなったが、それは商人の間だけのことで、父は昔の勘定しか知らなかった。父の勘定の仕方は、一日の手間賃がいくらと決めて、幾日かかったからというので値段が出るのである。材料なども白檀《びゃくだん》とか特別のものになると違うが、普通のものは手間賃の中に入れて了う。基準になる一日の手間賃を、一円位上げようかなどと言って時々上げていたが、それにしても晩年十円位がせいぜいで、それ以上にはならなかったようだ。高くしようと思っても、その理窟でいくから、世間の人のようにはならない。「世間の人はよくとるが気の強いものだ。」などと言っていた。弟子の方が却《かえ》って高くとっていた人もある位である。五六軒の商
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