写真に使うアンモニヤの壜《びん》の口の固いのを無理に抜いた時、沸騰して顔に吹付け、それで片目を失った。それが楠公の像の頃であったが、それ以後、後藤先生は益々|颯爽《さっそう》として、独眼竜と称した。
 画家との往来は余りなかった。雅邦先生は学校の始めからその後も始終一緒だったから、時々事がある度に往来していて、父は雅邦さんを大変尊敬していたけれど、個人的には非常に親しいという程ではなかった。寧《むし》ろ川端玉章先生の方が親しかったが、それにしても仕事が違うので大したつきあいというのでもなかった。却《かえ》って工芸家の方に大島如雲さんなどとのつきあいがあった。是真さんとは往来があったかどうか私は記憶にないが、父は是真さんの絵を殊にその意匠をひどく買っていた。洒落《しゃれ》のうまいところなど好きなのである。だから是真さんのものからヒントを得て作った彫刻は沢山ある。河鍋暁斎の絵も好きであった。父は自分では全然絵が描けないから、絵が描ければとよく言って居り、私には絵を習えとよく言ったものだ。
 父の弟子分では山本瑞雲などが美術学校に就職する前の輸出物を拵えていた時分からの弟子で、高村家の大久保
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