方にかけて値段が出るので、職人は成るべく削らないようにして仕事をまとめる。多くは円筒形とか円錐形の中に、出張っているところを成るべく削らないで形を纏《まと》めるのである。従って父のような考え方では駄肉が甚しく目立つのであろう。
 父は又彫刻の「角」を非常に大事がる。之は外国で言う面と同じ根拠で、面をはっきりすると「角」が出来るのだから同じ意味だ。ただ見方が違うのである。後は「肉合《にくあい》」である。勿論これは「こなし」が出来た上での「肉合」でなければならぬ。日本の彫刻性の特色はその「肉合」にあるとさえ言える。このことは昔からそうのようで、例えば刀の目貫とか欄間の彫りとかの良さは純粋に「肉合」の面白さにある。肉の「こなし」方、それが良ければ彫刻は良くなってゆく。それが悪いのは、散漫になったり痩《や》せたりして、つまり真の彫刻性がなくなって了う。こんな風な簡単な仕事の上の合言葉みたいなもので、わが国の彫刻性というものは僅かに伝統を遺して段々伝わって来たのだ。少くとも「こなし」などという言葉は江戸時代から伝わっているもので、恐らく面打なども言っていた言葉であろう。
 父は、「こなし」が過ぎ
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