る程こなす人でなければうまくならぬと言っていた。それはものを大きく見て、大きい「肉合」を始めから出来る人だ。さもないと、細かい所ばかり拵えるようになって、ただ締りのない部分だけしか出来ない。そういうのは、室町時代の地蔵様などによくある非常に精巧に出来ているが重苦しいのである。部分を見るとよく出来ているが、全体から見るといけない。そういうのは「こなし」が出来ていないのである。全体の大まかさ、そんな点で上代のものは「こなし」が非常によく出来ている。寧ろ「こなし」だけで、部分は大して問題にしていない。夢殿の救世観音《くせかんのん》にしても、中宮寺の弥勒《みろく》にしても、よほど「こなし」が良く出来ている。
 仏師の出である父は、又「仕上げ」を非常に喧《やかま》しく言ったものだ。仕上げには、普通に仕上げるのと「本仕上げ」というのとあって、本仕上げは父の一生涯のうちにも幾度しかやらぬという位のものだ。仕上げの時には、木目に従って削って木目の自然に添って刀痕《とうこん》が揃ってゆくという風にするのだが、本仕上げになると、刀痕もなくなって了う位に細かに削る。之には独特の削り方があって、ただやっていた
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