純粋に学校組織になり、事務の執り方から総てが西洋風になり、制服も洋服になった。それまでは例の闕腋《けってき》である。先生もきちんと時間までに登校し、一定の時間に帰る。官吏服務規定など見せられて、官吏は学校以外で私の仕事をしてはいけないということが書いてあるので、父は驚いて「もう家では仕事は出来ない。」と言い出した。それで暫く家の方に来る註文の仕事は決してやらなかった。そのうちに解釈が違うので、自分の仕事をしてもいいということが分って、「何だ馬鹿馬鹿しい。」と言って又やり始めた。だから、あの時代は父の作は一時途切れている。
岡倉さんが美術学校を辞める時、父も一旦総辞職と共に学校を出たのだが、暫くして又学校に戻った。岡倉さんは学校の方に残ってくれるようにとしきりに言い、文部省の方で強圧的に残るように言って来たので、どうでもこうでも残るようになったものらしい。私は父が腑甲斐ないように考えて非常に憤慨したものだ。後で父にそのことを言ったら、矢張私達の為だと言った。その方が穏かでいいと言っていた。今考えると、大きい芸術の進路から言えば、何でもないことだが、父が学校に戻ったことを私は実際後々まで
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