えたものだ。山田鬼斎さん、新海(竹太郎)さんなどいろいろな先生が手伝っていた。その製作の工程には、それに準じて様々な仕事がある。削る道具も極く大きいから各種の工夫のあるものが要るし、大工に属する仕事が沢山ある。そういうのを生徒が毎日見ながら覚えることは生徒の為にはなったろうと思う。日蓮の像も竹内先生が矢張学校の中に大きな小屋を建ててその中で拵えたのだ。鋳金を失敗して、日蓮の胴体に大きな穴があいて、私等はそこから出たり入ったりして遊んだ。あれは幾度やってもうまく出来ないので鋳掛けで埋めた。一番よく鋳金が出来たのは楠公の像である。一番|酷《ひど》かったのは、大きいだけに日蓮の像で、桜岡三四郎という人が鋳金を引受けてやったのである。岡倉さんの時代には総て学校が綜合的《そうごうてき》に動いていて、彫刻もやれば大工の仕事も見る、鋳金も見学するという風で生徒の為によかったろうと思う。又学科では彫刻の生徒も日本画等をやった。私等も粉本などを稽古《けいこ》した。大観、春草等の人がいろいろなものを描いた時代を見て覚えている。
ところが正木さんが校長になってからは、そのようなことはパッタリ止めになって、
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