たが、非常によい腕をもった人で、観音様の御堂に上っている絵馬のようなお供えの額を作って、その小さな一つを今でも私は父に貰って持っている。それは何でもないように見えていて、難しい仕事だ。そんなような職人との交際は他にもまだ沢山あったと思うが、東雲の亡くなった後は仏師の方はもう縁が切れたからであるか余り来なかった。
 丁度憲法発布の頃だから明治廿二年、西町から仲御徒町三丁目に引越した。その頃父がひどい病気をした。家中で、「ことによると駄目かもしれない。」と言っているのを心細い思いで聞いていたのを覚えている。癒《なお》ってからも一年位手が震えて父は何も仕事は出来なかった。それで仲御徒町の時の貧乏は実にひどいものだった。山本国吉(後の瑞雲さん)が一所懸命父の代作をして、それを三幸商会に持って行き、其の日の薬代などにしていたらしい。私も母に連れられて三幸商会に品物を納めに行った記憶がある。
 母は、今日で言うと小舟町辺の金谷という穀問屋に厄介になって居た人の娘であった。初めわかと言い、後にとよと言った。大変不幸な人で、私の祖父が余り気立がいいので見込んで倅《せがれ》の嫁にと話をし、半ば母を助ける
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