に》の鋏《はさみ》をペン置きにするとか、西洋人の気に入りそうな悪どいものだが、そんなものを沢山拵えた。一つが十銭か二十銭位だったから一円貰う為にはそんなものを可成拵えなければならぬわけだ。材はよく樟《くすのき》を使っていた。父の仕事は実に速かったが、そういうものでも投げやりには出来ぬ性だったから、合いはしないのだけれど、食べられぬからそんな仕事をするより外なかった。当時|牙彫《げぼり》がよく横浜に出て、非常に儲かったものだそうだが、父は自分は木彫を習ったのだからと言って遂にやらなかった。又その間に、鋳流しの蝋型《ろうがた》を作る仕事をした。
その頃、父のところに出入していた人は、そういう貿易商などが主で、石川光明先生なども来られたらしいが、面立をはっきり覚えていない位である。仏師の方は、父のところに来るということは少なかった。父の相弟子で林美雲という人があったが、この人は東雲が亡くなってから父を師匠代りにして西町によく来ていた。和達さんというアンチモニーの匙《さじ》を初めて拵えた半分商人で半分職人の人がよく来て、家では歓迎した。又錺半さんという錺屋《かざりや》の職人がよく出入りしてい
前へ
次へ
全76ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング