の像は大変面白い。私はこの像製作の少し前頃から丸刀《がんとう》を使い始めたのではないかと思う。丸鑿《まるのみ》は、製作上の実際から考えると飛鳥《あすか》時代にはなく、飛鳥時代は平鑿ばかり使ったのだろうと思う。飛鳥時代のものは鼻下の人中のような処でも三角に彫ってあり、何処にも丸鑿を使った形跡がない。飛鳥時代の彫刻は、平鑿で削ってゆく清浄さ、その清浄な気持でやったから、丸鑿など思いもよらなかったのだろうと思う。私の考では、丸鑿の使い始めは乾漆像製作の際から起ったのではないかと考える。乾漆の際、箆《へら》でやると谷が丸くなるので、平鑿のような仕事は出来ないが、それが乾漆像に非常に柔い感じを出し得た。それで、木彫の場合にもその柔い感じを出そうとして丸鑿を使い出したものだろうと推測するのである。丸鑿は天平になると使い出し、唐招提寺の諸像あたりから本当に使い始めたように思う。丸鑿というのは丸くしゃくれるから、巧くやるとすっきりしていい代りに、下手をすると却《かえ》っていいところを取って了う。だから乱雑に使うと、取らないでいいところ迄取って了うので、筋ばかりになってうるさく、物が非常に貧弱になって了う。江戸時代になると丸鑿の弊害は極端で、肉がぼてている癖に貧寒なものが多い。
然るに丸鑿を使っている唐招提寺の諸像もいいが、神護寺の薬師になると丸鑿の絶頂なのだ。あれは最もいい条件で丸鑿を使って居り、丸鑿でしゃくってあるけれども非常に謹んで使っていて決してやり過ぎていない。丸鑿でなければ出来ないことだけを実に有効にやっている。襞《ひだ》を丸鑿で木を深く削り込んで彫ってゆく意味がはっきり把《つか》んである。顔のようなところには肉を減らさない為に丸鑿は使わず、平鑿で突きつけて彫っている。あの仏像は技術の上からも非常に立派なもので、素晴しいと思う。
天平になると、彫刻が彫刻として始めて完備した時代だから、いくらでもいいものが沢山あって、皆のいいというものは矢張いいと思う。天平末だろうが、新薬師寺の薬師なども私はいいと思う。肉のとり方がとても巧く、如何にも木というものを意識しているところがあって、新しい面を拓《ひら》いている。そういう意味であの像はなかなかいいと思う。天平の乾漆は概して皆よい。三月堂の不空羂索《ふくうけんさく》なども、大らかな堂々とした所があって、お頭《つむ》も案外写生だけ
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