が出来ると思っている。私の作ったものには首位の程度で、大きいものはない。これから大きいものを始めようという時に、材料などが無くなっているけれども、私の制作其のものに就ては、此からが本当の積りである。その為に今迄いろいろ蓄積し準備をして来た筈であるから。
わが国の彫刻の歴史は、世界に誇示するに足る伝統を持っている。われわれはその秀れた伝統を正しく継承し、それをわれわれの新しい意味に於て発展させねばならぬ。
日本の彫刻史中では、近い頃から言えば明治大正の時代では矢張荻原守衛がいいと思う。江戸時代は周知のように此と言ってまともに此こそ彫刻だというものはないが、彫刻の技術方面の伝統を繋《つな》いで来たことは確かである。それは唯職人としての伝統を保って、当人達は無意識でただ腕を競ってやっていたのだけれど、その中に含まれているものが矢張彫刻の本質からでなければならぬものがあって、それを絶やさず、どうやら繋いで来た訳である。宮彫師だの彫金の方の人達がそうであり、又根附彫や仏師などの中にもそういう人達はいた。又一方には民間で拵えた木像が多く、此は名も知れないようになっているが、その中にはどうかして偶々《たまたま》いいものがある。又恵比寿様とか大黒様とか、そういうものの中にも万更棄難いものもないわけではない。非常に片寄った畸形《きけい》なものだけれど、そういう中からいいものを見つけ出して、それを棄てずに純粋にして大きくしなければならぬと思う。
然し彫刻としてむきになって立向うというものは、どうしても鎌倉時代あたりに行かなければならぬ。鎌倉では矢張運慶一派のものに見るべきものがあるが、ただ鎌倉のものは多少俗だ。然し運慶の無著禅師などは殊に立派であり、仏でも大日如来などはなかなかよい。矢張古いものを相当に研究しているし、それにその当時の溌剌《はつらつ》とした現世を見る眼が肥えて来ているのが表れている。ただどうしても時代のせいで、古いものから較べると俗気が入っているけれども、之は止むを得ない。それからこの時代は彫刻を拵える上の意匠が豊富になっている。此は彫刻について当時の彫刻家が自由に考えるようになった結果だと思う。
平安朝では皆の感心するようなものは矢張私もいいと思う。神護寺の薬師は全くいい。特殊なもので、ああいうものはあれだけぽっつり在るのだけれど、いろいろな方面から考えてあ
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