る。坊さんは案外覇気のあるものだけれどもそれが無く、如何にも精神の深いものが出ている。ああいう顔を自分勝手に拵えたらいいだろうと思った。私が自分勝手に作った首はそれに較べると僅かである。大調和展の二回目に、アトリエ社の記者をしていた住友君の首を出したが、その首あたりから幾分か自分らしい彫刻が出来るようになった。黄瀛《コウエイ》の首もその前後の作品である。黄瀛は日本で中野の通信隊に入って伝書鳩を習い、私のところにも来ていたが、支那に帰って伝書鳩の隊長になり、中佐か何かになって喜んでいた。ところが漢奸《かんかん》だというので漢口の附近で一網打尽に殺戮《さつりく》されたらしい。漢口の山の中に伝書鳩の箱や設備が残っていたということだが、全然それきり消息がない。南京で居た町も調べて貰ったが、其処も全然形跡もない。当人もそれを恐がって手紙もくれるなと言っていたのだが――。(終戦後彼の無事だった事が分った。)
黒田(清輝)さんの首もその頃作った。その後で、松戸の園芸学校の前の校長の赤星さんのを拵えたが、これは自分として突込めるだけ極度の写実主義をやってみたもので、一寸ドナテルロ風な物凄い彫刻である。松戸の学校の庭に建っていたが、此度供出した。それから女子大の成瀬仁蔵先生を拵えたが、これは暇がかかって十七年かかった。私はその人に実際に会ってみないと仕事が本当に行かない。成瀬さんにお目にかかったのは亡くなる直前で、首を作る為に行ったのでは困るからというので、お見舞ということにして病床でお目にかかっただけだから印象が薄かった。後は写真と学校の女の先生に会って聞いただけでやった。後には、成瀬さんが始終やらせていた理髪師を呼んで来て、頭の恰好《かっこう》を見て貰ったりした。女の先生の印象はいい加減なものだったが、理髪師の方は「此処のところが尖《とが》っていた。」とか、非常にはっきりしていた。序《つい》でがあって一両年前女子大で見たけれども、作としては味いがなくて余りよくない。
智恵子の首は随分拵えたし、父の首も可成作っている。中には地震の時に毀《こわ》れたものもあるし、自分で毀したものもあるが、大体は残っている。久しくやっている団十郎の首は、石膏《せっこう》でとるつもりで始めたが、今は石膏がないから泥で固めて了おうと思っている。初めから塑像にするつもりならば、それはそれで味いの違うもの
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