れども美しい。天平の塑像もよい。当時の塑像は西洋流の塑像の拵え方とは違って、固い泥で押えつけて拵えたものだ。西洋流の塑像のモデリングという風な考え方だと、比較的柔い自由自在になる泥で捏《こ》ねて拵える感じがあるが、日本のは固い泥を次から次に叩いて拵えたものだから制作の感じがまるで違う。
 更に遡《さかのぼ》れば、私は夢殿の観音を最高のところに置きたい。此は彫刻などと呼ぶ以上に精神的な部類に入って了う。この御像は彫刻の技術としては無器用であるけれども、その無器用な所が素晴しい。彫刻的には不調和で無茶苦茶な作であるが、寧《むし》ろその破綻《はたん》から良さが出て来て居り、完全に出来ていない所から命が湧いて来ている例である。お顔と衣紋《えもん》は様式的に全く違う。御|身躯《からだ》は漢魏式の決りきったやり方を踏襲しているが、お頭や手は丸で生きている人を標準にして刻んで附けている。法隆寺金堂の薬師にもその傾きはあるけれども夢殿の観音の方が甚しい。あの御像は確かに聖徳太子をお作りする積りで拵えたに違いないと私は信じる。それで時間的には短い期間に早く拵えた作だと思う。長く考えながら拵えた作ではない。夢中になって拵え、かかりきりで一気|呵成《かせい》に仕上げた作だ。あの難しい時代を心配されて亡くなられた杖とも柱とも頼む聖徳太子を慕って、何だって亡くなられたろうと思う痛恨な悲憤な気持で居ても立ってもいられない思いに憑《つ》かれたようになって拵え、結果がどうなろうとそれを眼中に入れないで作られたものであろう。それは非常にあらたかなものである。自分で彫って拵えたろうけれども、その作者さえ其処に置いては拝めないように怖い仏であったろうと思う。御身躯は従来通りに作ったけれども、お頭は聖徳太子を思いながら拵えたのであろう。技術上微笑したようなお顔になっているけれども、拈華微笑《ねんげみしょう》の教義による微笑の意義を目指して拵えたという説があるようだが、私にはそうはとれない。あの時代に、ああいう風にこなすとああいう工合になるのは当然である。だから微笑を志してああいうお顔になったとは思えない。作り初めの人の彫刻を見ると、笑ったような顔に自然になりがちなもので、古い時代のものには可成それが手伝っているのだと思う。お目なども大きく見開いて居られるが、それもやっている中に大きくなって了ったのだと思う
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