ても金が稼げるから、年を老《と》ってからでは危い。」というので、無理遣《むりやり》に背広など拵えて始めて着たりして厭《いや》で仕方がなかったが、行くことに決めた。然し愈々《いよいよ》行くと決ってからは、皿洗いをしてでもやろうと考えていた。岩村さんはシカゴの博覧会の時にその審査員になって行って、向うの審査員に知合があったから、マクニール、フレンチ、ボノーなどという人達に宛てて「|最も将来ある《モーストプロミッシング》」彫刻家だからなどという紹介状を書いてくれた。それを命の綱として、父から二千円貰って出かけたけれど、旅費を取ると実にポッチリのわけだった。然も紹介状などは何の役にもたたなかった。そして働くといっても私の取る金は一週六ドルか七ドルの少いものだから、なかなかであった。後には父から金を拵えて送ってくれてはいたけれども、実に僅かな金なので、英吉利《イギリス》に渡ってからは農商務省の練習生というのにして貰い、月々六十円程貰ってやっていた。世話になったポーグラム先生という人は非常にいい人でいろんな事を助けてくれた。世間では沢山金でも持って行ったように思って、向うに居ても金持の連中などで対等のつきあいをしようと思った人達が居たりして、そういう時は何時も仲間外れをしていたが、金がないと言ってもどうしても本当にしなかった。後々まで何の時もそうで、世間の眼には帝室技芸員の坊ちゃんという風に映っていたらしい。然し実際は父は死ぬまで産を遺していなかった。それで私は外国から帰って後になって父の下職みたいな仕事をやって生活をしていたのも、結局そうより外に仕方がなかったのである。「金があるのに怪しからん。金があるから作品を世の中に出さないで威張っているのだ。」などということをよく言われたけれども、事実は私は金を貰う為にそんな詰らない仕事を父の下でやっていたのだ。だから私の生活については、世間の考と事実とは非常に違うのである。
四年ばかりして外国から帰って来た。その当時矢張有島生馬、南薫造の両君が帰って来て、二人の展覧会が上野で開かれたがそれが新しい傾向として美術界を刺戟《しげき》した。丁度「白樺」の運動なども同時に起り私も向うの美術界の動向などを書いたりして、美術界の謂《い》わば新機運のようなものが次第に醸成されつつあった。白馬、太平洋などの会が相当盛んで、内田魯庵さんが評論を書い
前へ
次へ
全38ページ中28ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
高村 光太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング