ていた時代である。当時、真田久吉君という学校にいた時非常によく出来る人だったが、この人がわが国の印象派の傾向のような人を率いて運動をやろうとしていたところに、偶々《たまたま》斎藤与里さんが帰って来て一緒になって新しい美術の運動を起そうとした。其処に予《かね》てそういう考を抱いていた岸田劉生や木村荘八の諸君が合体して、フューザン会が成立した訳だ。フューザン会という名は斎藤与里さんがつけたのである。私は帰国して暫くした時で、父が六十一の還暦の祝でその肖像を私が作ったが、それが新傾向だというので評判になり、フューザン会の彫刻の方を私に入ってくれという話で勧められて加わった。あんなに熱っぽい運動というものは少い。然し中に二色あるのが矢張別れるもとで、斎藤さんなどの方は多少社会運動のような意味で道楽気があったが、岸田さんの方は本当にむきな芸術運動の積りであった。それで二回位やったけれど別れて了い、生活社というのを拵え、私は其の方に入った。神田にヴィナス クラブというのがあって、其処で、岸田劉生と木村荘八と僕ともう一人、四人で展覧会をやった。私は上高地で写生した油絵を可成出した。岸田君は後期印象派のような画風から脱却して、自分の本当の画に転換した初めで、主に写生で、移り変りの時期だったから幼稚なことは仕方なかったが、非常に質のいい仕事であった。※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]《に》え返るような若い時代の連中で毎日進んで行くというような時代だから、二三日|遇《あ》わないと何処かしら解らなくなって了うという風な毎日を送っていた。だから殆と毎日遇っていたと言っていい位顔を会せて議論したり描いたりしたものだ。あんな猛烈な時代というものは尠《すくな》いだろうと思う。私が結婚したのは丁度その当時である。岸田劉生、木村荘八、清宮彬の諸君とはとりわけ親しくつきあっていた。然しいつの場合でも、私は運動の中心になるというのではなく、傍系のような形でやって居たと言えるであろう。
そういう人々の印象派や後期印象派のような仕事が段々やっているうちにそれではどうにも行かなくなって御破算になり、正直に自分の見たものを描くより仕方がないというに立到った。岸田君は余りそんなことをしている中に胸を悪くし、鵠沼《くげぬま》に引込んで仕事をしていたが、その頃から岸田君の仕事は本当の画になって来たよ
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