である。その頃朝早く見物人の入らない先に花屋敷に入れて貰って虎の写生を続けていたが、その道で六区を通り抜けると、十二階下の所で玉乗の稽古をしている。それが実に厳しく、それを見てそんなものを拵えたのだが、それを学校の彫塑会という展覧会に出したら、岩村透さんや白井雨山さんが目をつけて評判になった。その頃は、何かそう言った風な文学的な意図のものでなければ承知出来なかった。
その時分、私は歌をやっていた。詰り彫刻ではやれない位に自分の裡《うち》に文学的な要求が出て来て、何か書かなければ居られなくなったのである。丁度森鴎外さんの「即興詩人」などが出た時分で、私はその頃は一かどの文学青年であった。そういうことは割合に小さい時から好きだったから、そういう方面の友達は別にいなかったけれど、学校で回覧雑誌などを出したことがある。そのうちに、与謝野鉄幹先生の「明星」が出て、暫くたってからそれに入ったり、又それ以前には久保先生の「雷会《いかづちかい》」などがあって、それに入っていた。そういう風で文学的なことが彫刻の上にも表現したくて仕方がない。卒業製作なども、何でも坊さんが経文を棄てて世の中に出るという所であった。私ばかりでなく機運が皆そんな風に動いていた。山本筍一がキリストの説教のところを作るとか、細谷三郎が俊寛を拵えるとか、何か文学的要素を持っているのがいいということになって、題も変てこな文学的な題をつけたものだ。後々まで悪い影響を学校の彫刻に与えたのは其処らから始っているようである。
学校を出て研究科に入ったが、彫刻科の先生は残らず駄目であった。何等の新知識もないし仕方がない。洋画科の方を見ると黒田清輝先生のような人も居て進んで居るからというので、再入学して洋画科に入った。その時の同級生に藤田嗣治、森田恒友、岡本一平、田辺至の諸君などがいた。洋画を一年ばかりやった頃、岩村(透)さんが、「どうして洋画などへ入ったのだ?」と訊《き》くので「洋画へ入って新しい知識も得るしデッサンなどもやってみたい。」と言うと、「彫刻をやるのに、洋画は違うのだから、そんな無駄なことはしない方がいいだろう。」というので、岩村さんが父に持ちかけ、無茶苦茶に私の外国行をすすめた。私は外国に行くといっても、いろいろ研究してからの方がいいと思っていたので余り行く気がしなかったが、父は「今のうちなら自分も無理をし
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