や櫟《くぬぎ》の林が一面で、父の家はその竹藪に囲まれた中にあった。だから鼬《いたち》や狐も居た。その前は谷中にいたが、彼処は墓地で、五重塔の下の芥坂という所は「投込み」といって、東京で首括《くびくく》りとか身投げなどの身許《みもと》の分らない者を身寄りの者が出て来るまで仮に埋葬する所であった。浅く埋めてあるから、時々足や手を犬がくわえ出したりしているのが見えたりして、昼間は平気だけれど、夜になると怖かった。丁度南方の土人の生活など今でもそうだろうと思うけれど、夜になると、あらゆる魑魅魍魎《ちみもうりょう》が一杯になった一種別の世界に入るような気がして、非常に恐ろしかった。子供の時を思うと、何だか世の中が暗かった気がして、一種の暗い世界が頭の中に出て来る。私は子供の時、変な幻想の世界の中に生きていたようであった。そして、朝になると本当によかったと思うことが度々であった。よく庭を一杯に籠《こ》めた朝靄《あさもや》に段々明るく陽が射して来る工合が何とも言えないいい気持であった。私の詩などにも靄が屡々《しばしば》出て来るが、私は子供の時分、靄というものに非常に敏感で、どうして大人にはこんなに美しいものが解らないのだろうと思ったものだった。
昼間は平気で、始終谷中の墓地の中で遊んだ。彼処は江戸時代に計画的に設計された天王寺の入口なので、考えてよく出来ている。そこの茶屋の子供が同級生だったので尚更よく遊びに行ったわけだが、以前は彼処の茶屋は非常に贅沢《ぜいたく》な所で、大奥の女中などが出入りしていた。外観はつまらないが、中は贅沢なもので、抹香臭いのと同時に変に麝香《じゃこう》臭い所であった。墓地は今行ってみると格別のことはないけれど、その頃は大層広く思えたもので、其処には土手があって実に草の豊富な所であった。私は山野の旅行など殆としたことがなく、自然というといつもその墓地を思い出す程である。自然というものに対する私の気持は専ら谷中の墓地で養われたとさえ言えるように思う。
子供の時、私は籤《くじ》を引くと必ず当るのでよく雇われたものだ。当るのには訳があって私は谷中の墓地は隅々まで精通していたから、文部大臣の森有礼を暗殺した西野文太郎の墓石を砕いてその一片《ひとかけ》を懐にして行くのである。私には確信があって、此を持ってゆけば当ると信じて行けば必ず当るのである。よく無尽講の籤引
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