―光ちゃんは私にとっては本当にいいんだよ。」と話してくれたことがあった。そんな風で、どちらかというと私は大事にされた。祖父なども私たちを授りものというような心持で、非常に労《いたわ》ってくれた。
 六つで私は小学校に入ったけれど、五つ位まで私は全然口が利けなかった。唖かと思って、母などは随分心配したらしい。医者は疳《かん》のせいだから、今に口が利けるから大丈夫だと言ったそうだが、或朝、頭中におできが出来た。昔の医者はそれが出る方がいいといって却って奨励したものだが、それがすっかり癒《なお》ったら急に口が利けるようになった。言語中枢に何か障碍《しょうがい》があったらしいのである。それから後で僅かの間にすっかり喋《しゃべ》るようになって、学校へ行く時分には差支えない位になっていた。
 母はお説教などは何も言ったことはないが、ただ言葉遣いだけは非常に喧《やかま》しく、何遍直されたか分らない。小学校へ行くようになって、他所《よそ》の子供の言葉を憶えて来てうっかり言うと、斯《こ》ういう風に言うのだと直されて了う。今日では江戸の言葉は無くなって了ったから、何を基準にしていいか分らないが、昔ははっきりいい悪いということが言えた。祖父も矢張言葉遣いに喧しく、変なことを言うと、「何だ、そんな田舎者のような口を利いてみっともない。」と叱られた。言っていけない言葉の中には、思い上った言葉だの、不心得な言葉が多く、だから一方では良心についての訓戒でもある。言葉遣いがいいということは、内容《なかみ》がいいということでもある。現在でも、私はものを書いたりする場合に、母のそれを思い出したりして、語感の上に非常に役立っているのを感じる。決して使えない言葉がいろいろあって、それが詩など書く時に本能的にひどく働くのだ。使いたくても変えるより仕方のない言葉とか表現の仕方とか沢山あって、それは母に教えられたことなどが本能的に出て来るのだと思う。自分のことから推して、言葉遣いで教えるということは非常にいい方法で、言葉の訓練ということはこれからの人にも大切だと私は思っている。

 子供の時分、私は夜が怖かった。今住んでいるこの家のある辺りは、以前は千駄木林町と言って、寛永寺のお台所の薪用の山であった。昔、鷹匠が住んでいた所で、古い庭園など荒果てて残って居り、あたりは孟宗竹《もうそうちく》の藪《やぶ》や茶畑、桜
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