とも事実である。弟子が食ってゆく為に小作り位までして来れば、その悪いところを削り直して仕上げをして父の名を入れた。父の作った原型があればそれでいろんな弟子が食ってゆけたのだ。後には父に見せないで名前を入れて出した人もあるが、父は太っ腹なところがあって、「結局いいのだけが俺のになるのだ。」と言って何とも思っていなかった。そんな風だったが、金には縁がなく年中苦労していた。後々までそうで、晩年は父の作品も相当高くなったが、それは商人の間だけのことで、父は昔の勘定しか知らなかった。父の勘定の仕方は、一日の手間賃がいくらと決めて、幾日かかったからというので値段が出るのである。材料なども白檀《びゃくだん》とか特別のものになると違うが、普通のものは手間賃の中に入れて了う。基準になる一日の手間賃を、一円位上げようかなどと言って時々上げていたが、それにしても晩年十円位がせいぜいで、それ以上にはならなかったようだ。高くしようと思っても、その理窟でいくから、世間の人のようにはならない。「世間の人はよくとるが気の強いものだ。」などと言っていた。弟子の方が却《かえ》って高くとっていた人もある位である。五六軒の商人が入替り立替り仕事を頼んでは出来たものを持って行ったが、商人は酷《ひど》く儲《もう》けていたと見えて、父が死んだらその為に潰《つぶ》れたのが出来た位である。跡取りが駄目だからそれで潰れたのだと言って、私が恨まれたりした。
二
子供の時分、私は病身で弱かったから、両親は私を育てるのに非常に難儀したらしい。私の兄弟は、一番上の姉がさく、次がうめ、それから私、その後にしずという妹がいて、その次が道利、それから豊周になる。その下に孟彦という弟があり、それは藤岡姓となった。その次は妹でよしと言う。
これらの兄弟のうちで、上の二人の姉だけが子供の時に亡くなった。私が生れるまでは、上が二人女の子だったから、母は総領が生れなくては当時の習慣で何時帰されても仕方がないというような気持で心配した。「光ちゃんがお腹の中にいた時に、今度生れるのが女の子だったら申訳がない。それでどうかして男の子が生れるようにというので方々の神様や仏様にお願いして願をかけたものだよ。そうして光ちゃんが生れた時、お祖父さんが『おとよ、出かした。』と言われた。其の時はこんな嬉しいことはなくて、天に登るような気がして―
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