写真に使うアンモニヤの壜《びん》の口の固いのを無理に抜いた時、沸騰して顔に吹付け、それで片目を失った。それが楠公の像の頃であったが、それ以後、後藤先生は益々|颯爽《さっそう》として、独眼竜と称した。
 画家との往来は余りなかった。雅邦先生は学校の始めからその後も始終一緒だったから、時々事がある度に往来していて、父は雅邦さんを大変尊敬していたけれど、個人的には非常に親しいという程ではなかった。寧《むし》ろ川端玉章先生の方が親しかったが、それにしても仕事が違うので大したつきあいというのでもなかった。却《かえ》って工芸家の方に大島如雲さんなどとのつきあいがあった。是真さんとは往来があったかどうか私は記憶にないが、父は是真さんの絵を殊にその意匠をひどく買っていた。洒落《しゃれ》のうまいところなど好きなのである。だから是真さんのものからヒントを得て作った彫刻は沢山ある。河鍋暁斎の絵も好きであった。父は自分では全然絵が描けないから、絵が描ければとよく言って居り、私には絵を習えとよく言ったものだ。
 父の弟子分では山本瑞雲などが美術学校に就職する前の輸出物を拵えていた時分からの弟子で、高村家の大久保彦左衛門だと威張っていた。暫く大阪にいて、それから又帰って来たが、兎に角この人が一番古い。それから林美雲は前に述べたように以前は父と兄弟弟子だったが、東雲歿後は父を師匠代りにして来ていた。今はもう亡くなって了ったような弟子も随分いるが、私の知っている限りでは内弟子で余りよくなった人はいない。その中で米原雲海など頭を出している位で、然し米原雲海はもともと出雲にいた時本職大工の旁《かたわ》ら既に彫刻をやっていて相当出来ていた。本山白雲も内弟子の一人だが、あの人は学校に行ったのだし、谷中の時分の弟子の中でよくなった人は殆とない。父はそういう弟子の為に気を配って、古社寺保存の仕事に入れて、仏像台座を削ったりしてどうにか食べてゆけるようにしてやったりした。明珍さんなども、そういう仕事でとうとう奈良でものになった。細谷とか其他の人達もいた。明珍さんは、丹念で非常に正直な人だから修繕ものには実によく、苦労した人だが毒のない飄逸《ひょういつ》な人だったから奈良で人望を得た。弟子の才分に応じて職をやるようにしたのだが、弟子がやってゆけるようにする為に、父自身は随分無理な俗な仕事をしなければならなかったこ
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