に渡すと奇麗に仕上げる。それを更に又父が刀を入れて生かし、父の作となって世の中に出るのである。だから父から言えば、いずれも不満なもので、そういうやり方のいけないことは充分に知っていたが、そうしなければ弟子達を養っていけなかった。父自身が最初から終いまでやったものも可成あるが、それは数から言ったら一生涯かかって五十点位なものであろう。流石《さすが》にそういう作品は、肉合とか、そういうものに神経が徹《とお》っているから死んだところがない訳で、父のものは父なりにちゃんと出来ているのである。
いい彫刻があると、父はよく稽古《けいこ》に模刻した。明時代頃のやきものの白衣観音の素晴しいのがあるというので、よそから借りて来て、桜の材か何かで一心に自分で模刻しているようなことが時々あった。六十歳位まではそういうことをやっていて、その点私達も感心した。ただ父の鑑賞眼は専らその彫り方に向けられている。仏像などを見ても、上代のものよりは鎌倉時代のものを見る方を喜ぶ。快慶の仁王などに感心するのである。天平のものなどは、「いいにはいいけれども」などと言っていた。ロダンのものなど、どうしても最後まで感心しなかった。きっともっと仕上げたい気がするのではないかと思う。だから表現されたものなどということは一寸も頭に出て来ないのである。此は止むを得ないことで、父の裡《うち》に保持されていたものは僅かに「こなし」とか「にくあい」とかのわが国彫刻技術の伝統に他ならなかった。
動物の彫刻など拵える時は、父は必ず実物を飼って写生を沢山した。鸚鵡《おうむ》を拵える時は鸚鵡を、猿を拵える時は猿を飼った。博物館にある「猿」は、シカゴの博覧会に出す為に苦心してやっていたが、なかなかうまく進捗《しんちょく》せず、谷中で荒彫をして、林町に越す時それを運んで、こちらで仕上げた。材は、後藤貞行さんの案内で、栃木県の山を歩いて見つけた珍しい栃の大木だった。相当深い山腹にあったのを切り出して持ち出すのに大変だったらしい。初めは真白な材の筈でそれに白猿を彫ろうという計画だったが、東京に持って来たらそれ程でなかったけれど、栃の木特有のチリチリした特徴があって、それが猿の毛並に合うと言って父は喜んでいた。谷中の家の庭にその材木を置き小屋掛けをしてやり始めたのだけれど、栃の木は固く、非常に逆目の多い木なので、普通の鑿《のみ》ではやれ
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