ないので、正次さんという正宗系統の非常にうまい刀|鍛冶《かじ》に頼んで、いろいろな特別な鑿を拵えて仕事をしたことを覚えている。始めのうちは、此処と此処はいじってはいけないけれど、他はどうでもいいからどんどん削れと言って私共に削らせた。兎に角太い丸太を或る恰好《かっこう》にこなさなければならぬから実に大変であった。私共はその材の山の上に登って遊んだものだ。父の気持では、猿は日本で、羽をのこして飛び去った鷲はロシヤという見立であった。シカゴの博覧会ではロシヤの館が隣で、矢張アメリカでもそうとったらしい。又今何処にあるのか写真も余り遺っていないが、「山霊|訶護《かご》」という題で、山姥《やまんば》が木に寄掛っていると、其処に鷲が来て、それに対して山姥が山の小動物を匿《かくま》っている態のものだが、これは父が苦しんで一所懸命やった彫刻だった。高さ四尺位あって、写生はなかなかよく行っていたように思う。山姥の肋骨《ろっこつ》や何かのモデルには祖父がなったが、祖父は一所懸命その姿勢をしていたのを覚えている。それと同じ時代に、盲人が杖を持って河を渡っているところの彫刻があるが、これは米原雲海さんが拵えた悪どいものだが、それも父の名前になっている。
そういう実際には父の拵えたものではないが父の名前になっている作品は大分ある。銅像は私が記憶にない頃からやっていたとみえて、若い頃の八の字|髭《ひげ》姿の松方正義伯のものなど物置に後まで木型があった。木で肖像を拵えるのだから、彫って行って気に入らないと又初めから拵えなおすので同じような首が実にいくらあるか分らない。皆仏様のように首を胴に嵌《は》めこんだものである。肖像で一番印象に残っているのは、平尾賛平さん夫妻の首だ。其の頃にはそういう肖像彫刻は未だ珍しい時代であった。父は原型を拵えてからやるのは始めは嫌いだったけれど、後にポインティング マシンが流行《はや》りだしてからは原型によってやるようになった。
父は又|御輿《みこし》を拵えるのが好きであった。自分で屋根の反りなどを考え、生地で彫物をつけたものだ。御輿には桑名の諸戸清六という人から頼まれて拵えたものだの、葭町《よしちょう》の御輿などがある。これらはなかなか形がよく出来ていた。
父と同時代の彫刻家で、個人的には非常に親密だったが、仕事の上で対立していたのは石川光明、竹内久一の両先
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