黄山谷について
高村光太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)黄山谷《こうざんこく》
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 平凡社の今度の「書道全集」は製版がたいへんいいので見ていてたのしい。それに中国のも日本のも典拠の正しい、すぐれた原本がうまく選ばれているようで、われわれ門外漢も安心して鑑賞できるのが何よりだ。
 今、このアトリエの壁に黄山谷の「伏波神祠詩巻」の冒頭の三句だけの写真がかかげられている。「蒙々篁竹下、有路上壺頭」に始まる個所だ。多分「書道全集」の図版の原型になった写真の大きな複写と思えるが、人からもらった時一見するなり心をうたれて、すぐ壁にかかげたのである。それ以後毎日見ている。黄山谷の書は前から好きであったが、この晩年の書を見るに及んでますます好きになってしまった。
 黄山谷《こうざんこく》の書ほど不思議な書は少い。大体からいって彼の書はまずいように見える。まずいかと思うとまずいともいえない。しかし普通にいう意味のうまさはまず無い。彼は宋代に書家として蘇東坡《そとうば》、米元章と並んで三大家といわれていたが、他の二人とはまるでその性質がちがう。東坡の書も米元章の書も実にうまい。まずいなどという分子はまるでない。どの一字をとってみても巧妙である。そしてやはり唐代の余韻がある。新鮮ではあるが、唐代からの二王や顔真卿の縄張りをそう遠くは離れていない。どちらも妍媚《けんび》だ。ところが黄山谷と来るとまるで飛び離れている。黄山谷はむしろ稚拙野蛮だ。顔真卿の影響をうけているといわれ、なるほどその趣もあるが、顔魯公よりも自由だ。勝手次第だ。一字ずつみると、その筆法は実に初心で、まるで習いはじめの人のように筆をはねたりする。馬鹿にのんびりしていたり、又くしゃくしゃと書きつめる。線をたるんでいるように書いたり、横に曲げたり、字のつづきも疎密にかまわない。行が片よったり、字くばりがでこぼこだったり、字の大小も方向も気にとめない。そして一々ぎゅっとおさえて書く。何しろひどく不器用に見える。
 それでいて黄山谷の書は大きい。実に大きな感じで、これに比べると蘇東坡も米元章もなんだかよそゆきじみて来る。何よりも黄山谷の書は内にこもった中心からの気魄《きはく》に満ちていて、しかもそれが変な見てくれになっていない。強引さがない。よく禅僧などの墨せきにいやな力みの出ているものが
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