あるが、そういう厭味《いやみ》がまるでない。強いけれども、あくどくない。ぼくとつだが品位は高い。思うままだが乱暴ではない。うまさを通り越した境に突入した書で、実に立派だ。彼の元祐年代頃の書と思いくらべると、この「詩巻」の意味がよくわかる。
朝、眼がさめると向うの壁にかけてあるその写真の書が自然に見えるのだが、毎朝見るたびに、はっとするほどその書が新らしい。書面全体からくる生きてるような精神の動きが私をうつ。この書が眼にはいると、たちまち頭がはっきりして、寝台からとび下りて、毎朝はじめて見るような思でその写真の前に立たずにいられない。そして「蒙々篁竹下」とあらためてまた見る。吸いよせられるような思で、「漢塁云々」まで来ると、もう顔を洗ったような気がする。まずいようだなどといっては甚だ申しわけがない。それどころではないのである。尤《もっと》もむかし王定国という人が彼の書を巧みでないといったそうで、黄山谷自身も、この詩巻を書いた時は背中にできものができていて、手が思うように動かないので字に成らなかったといったそうであるが、これはどうだか。手が動こうが動くまいが、こんな立派なものが書ければ申分ない。字に成らなかったといわれるが、むしろその方がよかったような気がする。殊にこの詩巻の自跋《じばつ》の数行はのびのびとしていて力強く、「水漲一丈、堤上泥深一尺」あたりの快さは無類である。随分癖のある書だが、それが少しもいやでなく、わざとらしくもない。そこがすばらしい。
底本:「昭和文学全集第4巻」小学館
1989(平成元)年4月1日初版第1刷発行
1994(平成5)年9月10日初版第2刷発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2006年11月20日作成
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