を編成した。私もその一人に加わった。文化史、社会学、哲学、経済史、簿記、法律学、歴史学、英語、独逸語等を三時間ずつ毎夜授講することにした。炭がもらえない冬の図書館の夜は殺人的だった。ついに七人位の超熱心な男女の青年が聴講に残っただけだったが、この人数より多い教師陣こそ悲愴だった。この七、八人を失わないためにまた一人でも弟子を増そうとして猛烈な勉強もしたし、また文化運動の酷薄な困難さと戦いはじめたのであった。それはニューギニヤやアリューシャンで闘うときのつらさとは違った厄介さをもって、青年幹部達を訓練の中に投げ込んだ。一月、二月、三月、見るもいたましい痩我慢をもって戦った彼等は、しかし、すでに一人一人、戦友であり、文化の闘士となって鍛えられていた。
春は来た。青年達は、三カ月毎日曜日つづけた「希望音楽会」の結末をつけるべく、「花の祭」を計画した。千光寺山一杯に咲く桜の中にマイクをつけて、世界の春の曲を全山に響かせようというのである。計画は計画を生んで、「おでん」と「お茶の会」を女子青年会が、そして和洋の音楽会を二つ、映画界と生花会、一連の切符を二十円で売って、一週間ぶっ通しの花のフェスティバルをする事となった。演劇班はシュプレッヒ・コールをして、戦の間中、「この花を見たかった! 見せたかった!」とマイクと集団をもって花の中に展開した。これは、青年全体の二百名からの集団的訓練と組織と、市民への関係を確保せしめるのに役立った。終戦後初めての桜の花は、彼等にとって夢のように楽しいらしかった。
四月からの文化運動は新たなすがたをもった。私は「カント講座」を計画した。百五十年の立後れをもったドイツのこの啓蒙学者の理論は、三百年の立後れをもち、しかも封建残滓を急速に脱落しなければならない日本に一つの一階程となるのではないかと私には思われた。私はこれを実験にうつした。この計画は案外な反響を生んで、尾道では七十人の毎週連続聴講生を続け、隣の三原市では労働者をふくめて百人の聴講生をもった。私はルネッサンスが眼前において起るのを見たいという野望を胸に描いたのである。カントの言葉を借りて、封建より脱落して、自我の尊厳へ青年達を導くとき、時々、ルネッサンスの中に火に炙られようが、獄に投ぜられようが、乗越え乗越えてやって来た、荒々しい学者どもの魂が、亡霊が、うろつきさまようかのような、胸を
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