る。三人位の聴衆に大きな声でやるのは淋しいというより実際悲しかった。例の広高生の槇田と、私の講義は出来る限り聴衆となろうとする七十七歳の私の母のほかは、外来聴衆はただ一人という時は、母の方が可哀そうに私を見ているらしいのには閉口した。しかし、むしろヒロイックになって、その時の私の講義の出来栄えは、自分でも相当満足すべきものと思うものがあった。
 館の横には太陽館という映画館がある。私の最も対象とした、帰還軍人、特攻クズレは白いマフラを巻いて群をなしてうろついている。それだのに私の講演は、閑古鳥が鳴きつづけた。その寒むざむとした思いは、今思い出しても腹の冷えるような思いであった。
 市は私の図書館に電気を仲々つけてくれなかった。ついに私は十二月二十八日思い切ってポケットマネーで電気をつけ、早速希望音楽会を開いた。チャイコフスキーの「悲愴」とベートーベンの「第九」という、敗戦の年の暮を一層重く苦しくするものを敢えて選んだ。百名の青年男女が、ガラス窓の破れてソヨソヨ風の吹き透す会場で、皆外套襟巻すがたで聞き入った。第九の合唱がはじまるまで、人々は壊えはてし国の悲しさが、この部屋に凝集するかのような思いであった。そのかわり、「第九」の合唱となり「ああ、友よ」と遠い敗れ去ったドイツから、二百年の彼方シルレル、ベートーベンから呼びかけられたとき。皆、深く、頭をうなだれて、眼に涙をうかべさえしたものもあった。私も一生、あの時の如く「第九シンフォニー」を激情をもって聴いたことも、また聴くこともあるまい。私は会が終って、感動の激情を聴衆に伝えずにはいられなかった。
 これが一つのエポックとなって、日曜日の午後三時から毎週、「希望音楽会」をつづけたのであった。絵の展覧会も、座談会がきっかけで書庫の前に二十点ばかりを常置した。街に出す展覧会の広告が、また、その頃では街に咲く一つの華ともなり、「平和が来たんだぞ」という一つの呼びかけともなったのであった。ボロボロの図書館は、かくして、ボロのフォードが身震いして走り出したように、ついに動きはじめたのであった。これはまた、青年達を、一種の好奇の眼をもって、周りにひきつける役割を果たしたのである。「あっあのボロ車が?」と。
 特攻隊の神風隊の大尉であるまたは復員の陸軍少尉殿である青年達は、この図書館で、丁稚達を教育しようと考えついた。そして教師陣
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