青年層となると学生が増える。学生は妙に反動へと浮遊してゆく。正しさはよく判るが、潜在意識のあのファショ教育の残滓の奥の方から、囁くようにブレーキをかけるものがあるらしい。この蜘蛛の巣のようなものを手や指につかんで、ヤケを起している風が見える。この昏冥には、行くものが帰るものであり、帰るものが行くものであるという、「西田さんの渦流《ウィルペル》」(深田康算先生はそう呼んでいられたが)は恰好のゆりかごとなり、青年達をそれに吸い込んで行くのである。小学校の先生達がまた、この快いリズムの中に回転しながら吸い込まれていっている。そこになると労働者青年の哲学講座は違う。彼等はまずカントの線を学びたがる。カント講座が聴衆を最も長く、多く、ひきつける。そしてそれの弁証法への契機を追い求める。そして弁証法を、腹の底まで、自分のものとしたいと、いくらでも貪欲に追求して来る。
 只、全体に田舎の労働者の青年達で、話すのに注意しなければならないのは、(一)[#「(一)」は縦中横]あまり片仮名(外国語)を用いないこと。(二)[#「(二)」は縦中横]一度に三つより多くの主題を話の中に盛らないこと。(三)[#「(三
前へ 次へ
全6ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング