オルソ式色彩映画も蹤《つ》いていったのであった。ところがあの映画で、麦の黄色の場面の中で、台所のかまどの蓋をあけると辺りが一瞬ボーッと赤くなるシーンがあった。この赤と黄の共在こそが、私たちの最も苦手であった。この場面を一緒に見ていた安藤、辻部、私の三人は、映画館をでてもしばらく黙って歩いていた。私たちはその時、うちのめされていたのである。「まいった」という思いで三人は歩いていた。
 アメリカの全映画機構が色彩映画に向って全面的な攻勢に転じているのに、一刻一刻おくれていく日本の映画界の現状をジリジリする思いで、私たちは見つめていた。
 五人の者は、わずか五万円の出資のもとに前の二つの映画を完成し、一九三二年(昭和七年)十月九日(日曜)午前十時、大阪朝日会館において、同日午後一時半より京都日之出会館において、学者、映画人の前で発表会をおこなった。毎日新聞はこれを大きく取り扱って、美学映画の誕生と初号見だしで宣伝してくれたし、大阪行幸の時は安藤君は特別に陛下の前で御説明申しあげるなど、相当のセンセイションを起したのであった。
 この映画は貴志君がドイツへ行く時に携え好評であったとのことだが、
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