色彩映画の思い出
中井正一
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)踵《きびす》
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バンジャマン・クレミュウは『不安と再建』の中で、一九三〇年は、すべての領域で決定的な年であったといっている。世界的な経済危機、ロシアのダンピング、トーキーが欧州を風靡した年である。
それは集団的主張の時代が、個人的主張の時代に代わる年であると彼はいうのである。
わが国でも土橋的トーキーが、この流れにそって、研究され、世界の動きにおくれざらんとして戦っていた。そして、今、曲りなりにもトーキーは、世界的技術に踵《きびす》を接して、歩を共にしていたのである。
なぜ、色彩映画が、今、みごとに世界から立ちおくれたかについて、私は感慨深い想いをもっているのである。
以下、思いいずるままに語ろう。
一九三一年ごろ、支那学者内藤湖南氏の息子であり私の友人内藤耕次郎が京大の心理学教室にいた。彼はそのころ、すべての音が特有な色彩に見えるという性質をもっていて、それを記録するために映画の一コマ、一コマを色で描いてそれを表現しようと試みていた。私は家の一部屋を彼に与えて、その実験を援助していた。ちょうどそのころ、大阪の工業試験所に安藤春蔵君が、色彩映画の研究者として一部屋もっているのを知った。私たちは美学の友人辻部政太郎と共に、この安藤君を助けてぜひ日本色彩映画の最初の試みをしてみたいと、いつも語りあっていた。
またそのころ、芦屋の富豪で音楽家の貴志康一君が、ドイツ留学にあたって、法隆寺を映画に撮り音楽映画として紹介したいという念願をもっていた。私たちは日頃の実験を試みるべく、貴志君の資本でそれを音楽色彩映画にしようとした。しかしその法隆寺撮影は国宝保存委員会の許可を得る見込みがつかなくなってきた。
そこで私たちは思いきって、シネ・ポエムと、アヴァンギャルド映画を撮って、日本色彩映画の最初の試みをもくろんだ。そして魚眼レンズが当時二十三ポイントの暗さであったのを、三・半の明かるさに組みたてることに成功したので、これもこの際試みてみようとした。さらに色彩音楽(カラー・ミュージック)をその中に織り込み、また、知識的思惟作用が映画的表現を得るかどうかも試みるために、映画語(キノ・ザッ
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