ツ)の実験も考えたのであった。

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『十分間の思索』………責任構成 中井正一
           撮影   安藤春蔵
『海の詩』………………責任構成 辻部政太郎
           撮影   安藤春蔵
           色彩音楽 内藤耕次郎
           音楽   貴志康一
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 以上のような計画で、昭和六年の暮ごろから、すべての実験を試みたのであった。
 魚眼レンズとその映像をダブるべく、シャボン玉の色彩像を撮ろうとして、幾晩か徹夜したが、その結果がついに失敗に帰した時なぞ、みなのショゲかたは可愛想なほどであった。しかし魚眼レンズをラグビーのスクラムの中につっこんで撮ったりして、初めて動く魚眼の映画像を見た時は、これまでの苦労も消しとぶほどの興奮をみなに与えたのであった。
 色彩フィルムの現像が簡単な枠の手廻しであるために、最後まで微かに色が呼吸をするのを、どうしてもとり去ることができなかったのも、私たちだけにわかる苦しみであった。ちょうどそのころ、アメリカの色彩映画『丘の一本松』が輸入された、大体、あの映画の水準に私たちのオルソ式色彩映画も蹤《つ》いていったのであった。ところがあの映画で、麦の黄色の場面の中で、台所のかまどの蓋をあけると辺りが一瞬ボーッと赤くなるシーンがあった。この赤と黄の共在こそが、私たちの最も苦手であった。この場面を一緒に見ていた安藤、辻部、私の三人は、映画館をでてもしばらく黙って歩いていた。私たちはその時、うちのめされていたのである。「まいった」という思いで三人は歩いていた。
 アメリカの全映画機構が色彩映画に向って全面的な攻勢に転じているのに、一刻一刻おくれていく日本の映画界の現状をジリジリする思いで、私たちは見つめていた。
 五人の者は、わずか五万円の出資のもとに前の二つの映画を完成し、一九三二年(昭和七年)十月九日(日曜)午前十時、大阪朝日会館において、同日午後一時半より京都日之出会館において、学者、映画人の前で発表会をおこなった。毎日新聞はこれを大きく取り扱って、美学映画の誕生と初号見だしで宣伝してくれたし、大阪行幸の時は安藤君は特別に陛下の前で御説明申しあげるなど、相当のセンセイションを起したのであった。
 この映画は貴志君がドイツへ行く時に携え好評であったとのことだが、
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