色彩映画のシナリオ
中井正一

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 私はフィルムが色彩を駆使するにあたって、それを「天然色映画」と名づけているのに、反対である。すでに映画が芸術であるかぎり、映画は、必ずしも天然の色と称するもののみに似ることをのみ標準とする名前をつける必要はないのである。
 それは、むしろ簡単に「色彩映画」とよばれるべきであり、シナリオ・ライターは、そのシナリオで作者の意図にしたがって、おちついたソフト・トーンの色、またはコントラストの強いアクセントの色、あるいは、茶またはセピア色のトーン、または、一様に淡い色のタッチなどを注文することが、将来可能であり、その用意のための最初の命名が望ましいのである。
 色彩映画が始まるや、シナリオ・ライターは、一つの大きな幻想の新しい世界が切り開けたと同時に、一つの色彩の作曲的な構想が必要となってきたのである。
 ちょうど詩の韻律が、語音のリフレインの繰り返しであって、一つの芸術感がもたらされるように、色がその役割りをもってきたのである。
 例えば『暁の電撃戦』“The Western Approaches”において、基調は大西洋の海の青さであり、その空にひろがる雲は、それのヴァリエーションであった。その中に、繰り返し、繰り返し出てきた、ボートの帆の赤さは、そのリフレインの主題の役目をもっていたのである。
 あの映画の中で、なお一つ注意すべきは、全シナリオを通じて、それが赤い色であることをもってのみ、この筋をひきしめ、その赤さは、人々をして、目にしみ入るほどの強い印象をあたえた一つの赤い色があった。
 それは、シナリオ・ライターが、胸にかくしもって、それが金筋のハイライトの役割りをもつものであった。それは、ほんの二点の灯にしかすぎなかったが、小さな消えつつある電池によって点じている電信機に灯っていた「赤い色」であった。その赤い火が灯っているかぎり、ボートの乗組員の位置が大西洋を航行しているいずれかの船に、S・O・Sのモールス信号を伝えうるのである。
 しかも、その「赤い色」は、そのキーをうつ者だけに見える小さな灯なのである。全乗組員は、ひそかに、心の中で、その赤い灯が消えはしないかと、怖れている
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