生きている空間
――映画空間論への序曲
中井正一

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)皮肉《イロニー》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ロマン的|皮肉《イロニー》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]
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 ヘーゲルの弁証法が生れる周囲には、その頃の青年ドイツ派ロマン的|皮肉《イロニー》があると考える人々がある。ロマン的皮肉とは、ヘーゲルの友人のゾルゲルで代表されるところの一つの表現、自分達の凡ての行いや言葉のすぐそばに、「黙ってジッと自分を見つめている眼なざし」があると云う一つの不安と怖れである。自分の反省の中にある、限りない圧迫感である。自分の中に、いつでも自分をすべりぬけて、自分を見いる眼があることへの苦悩である。
 この皮肉(イロニー)、不安は、その頃の青年ロマン派の人々の合言葉であり、共通にあったドイツ近代精神の流れでもあった。それをブランデスは次の様にしるしている。
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「病的な自己省察よりも、より大いな不幸と苦痛はあるまい。人々はその際、自分を自分より切離し、観客として自分を観察する。而して間もなく、獄裡の囚人が、扉に於ける覗穴から中を覗く看守の眼を見上ぐる時に感ずる様な恐ろしい感情を経験する。かかる場合には自己の眼が他人の眼と同じ様に恐ろしく思われる。われわれは自分自身をあたかも、岸のみが知られていて、その内部はこれからはじめて発見されるべき国がなぞの様に見るのである。……ある晴れやかなる日、哀れなる囚人は、自分の仕事場から覗穴を見上げて、そこから眼が消失せたのを認める。そこで始めて彼は呼吸し得る。生き得る。」
[#ここで字下げ終わり]
 この不安の凝視は、存在論で云うならば、本質的凝視とでも云う、如何にもドイツ的な、北方的ゲルマン的な、眼なざしを感ぜしめるものがある。
 そして、それは、シェークスピアが、ハムレットを描いて以後、近代人の視覚の中に類型づけられるところの視覚であり、ドイツは、レッシングがそれをドイツに入れてから、ロマン主義的イロニーにまで盛上るのに一五〇年の立後れをした視覚でもある。
 ハイデッガーの存在論も、この不安の凝視を哲学の中に再現している。そしてそれを、「生きた空間」(ロイムリッヒ・インザイン)と表現して、距離の不安の言葉をもって、同じ主題を取扱っているのである。ハイデッガーはカント的に、初めから形式的に空間なるものがあるのではなくして、そんな空間は只の「間隔」(アップシュタント)の世界である。自分があるべき自分の位置からはずれている時、その時初めて、自分からの「距離」(エンドフェルヌング)即ち、はなれている不安としての空間が生れる。この存在が存在から距てられている怖れが、生きた空間のほんとうの感じであると考えるのである。サルトルが常に表現するところの不安の空間の意味でもある。
 自分が、自分からぬけ去って、自分を見ていると云うロマン的皮肉も、この自分から自分が距たっている云う不安も、その根柢に、そのあるべき所を得ていない知識人の嘆きが共通に流れている。
 ハイデッガーの弟子であるオスカー・ベッカーは、彼の論文「直観的空間のアプリオリ的構造」の中で、かかる立場から、空間的次元を「生きた空間」として取扱う試みをしたのである。
 彼は、一次元を、「何物かに向うところのこころ」と考えるのである。自分が、一つの方向への距離を感じ、それに向って、直ぐに向うことである。(日本語で「おもう」は、初めは恋をする、好意をもつ、そちらに向って、顔面を向けて方向づけるの意味をもっていて、だんだん「考えること」に転化するのである。)ベッカーでは、その場合、その方向が「ひたすら」(ゲラーデアウス)であることが必要であると云う。
 この「ひたすら」なる一義的方向が、一義的であり得なくなって、只距離はあるけれども、それは、アリアドネの糸に導かれる洞窟の中のさまよいのように、無限のさまよう面をもった時、それは二次元の空間が現われて来るのである。さまよいの不安、その広さの不安、無限の方向に距離が感ぜられる世界である。しかし、距離の感じが無限であるだけで、自分が動いてはいないのである。
 その自分が動いて、自分が方向の舵をもって動きつつ、距離感の中を動きはじめる時、第三次元が生れると云うのである。
 かかる考え方でもって空間を考える立場では、自分が自分を見ると云う本質的な視覚が出現する時、それは、空間を自分と自分との間の距離の出現として取扱うのである。「見る」と云うことがすでに、「生きた空間」をかたちづくって来るのである。
 ベッカーのこんな考え方は、所謂空間的アプリオリティから「距り」が生れるのではな
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