くして、寧ろ自分が何か自分から距てられて[#「距てられて」に傍点]いること、そのことから空間が構成されてゆく。空間の中に生《いのち》があるのではなくして、生の中に空間があるのである。
 ゾルゲルの云う「黙って、ジッと自分を見つめている眼なざし」は、かかる生きて動いている空間の浮彫りされたものとなって来るのである。
 ここに、私達が自然と自分との間に画布を立てて、それを距てることを考えて見るに、生の立場からするならば、自然に対決する一つの視線をもった自分と、その次の瞬間に視線を投げる自分との間の隙虚《すきま》に、画布が寂かにすべり入り、その切断を充たさんとするとも考えられるのである。かく考える時、画布の二次元性は決して、物理的二次元性ではない。新たに構成されはじめる芸術的な生きた二次元性である。白い画布は、無限に流れてやまない時間の中に、自分が自分に問かける「疑問記号」に外ならない。
 存在に対する問の設立として、私達は白い画布をかけるとも云えるのである。方向と範囲を定めた「距離」の生きたしるしとなるのである。
 この一定の方向が自由になり、範囲が自由となり、この距離が動きはじめる時、この芸術的空間が彫刻となって来るのである。美術館の所謂物理的三次元性と、彫刻の芸術的三次元性は対応したものはもっていても、同じ空間性の中には生きてはいないのである。「影」と「動いている姿」の差があると云えるであろう。
 この絵画と彫刻の二次元性と三次元性との差は、文学の世界では、小説と戯曲の上に現われて来ると云えるであろう。
 例えば、小説で取扱うところの「気持が好い」と云う言葉の取扱いを考えて見よう。この言葉に対するにあたって、如何なる方向によって、如何なるワクの中でこれをとられ得るかという場合、「気持が好いと云いなすった」「気持が好いと云った」「気持が好いとぬかした」等々の立場があり、それを小説は表現する一つの「面」をもたなければならない。ここに小説のもつ空間的性格がある。
 この方向と距離とワクが自由となる時、ここに演劇の世界が展ける。そこでは、ただ「気持が好い」とだけ語らしめる。そして、無限の観衆の角度にしたがって、各々の立場からそれを受取らしめる。往々にして、劇作家は、自分の中に、無限に分裂した自己をもっていて、小説にまとめるには余りにも多くの自分をもっていて、それは劇の姿をも
前へ 次へ
全5ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング