距離の不安の言葉をもって、同じ主題を取扱っているのである。ハイデッガーはカント的に、初めから形式的に空間なるものがあるのではなくして、そんな空間は只の「間隔」(アップシュタント)の世界である。自分があるべき自分の位置からはずれている時、その時初めて、自分からの「距離」(エンドフェルヌング)即ち、はなれている不安としての空間が生れる。この存在が存在から距てられている怖れが、生きた空間のほんとうの感じであると考えるのである。サルトルが常に表現するところの不安の空間の意味でもある。
 自分が、自分からぬけ去って、自分を見ていると云うロマン的皮肉も、この自分から自分が距たっている云う不安も、その根柢に、そのあるべき所を得ていない知識人の嘆きが共通に流れている。
 ハイデッガーの弟子であるオスカー・ベッカーは、彼の論文「直観的空間のアプリオリ的構造」の中で、かかる立場から、空間的次元を「生きた空間」として取扱う試みをしたのである。
 彼は、一次元を、「何物かに向うところのこころ」と考えるのである。自分が、一つの方向への距離を感じ、それに向って、直ぐに向うことである。(日本語で「おもう」は、初めは恋をする、好意をもつ、そちらに向って、顔面を向けて方向づけるの意味をもっていて、だんだん「考えること」に転化するのである。)ベッカーでは、その場合、その方向が「ひたすら」(ゲラーデアウス)であることが必要であると云う。
 この「ひたすら」なる一義的方向が、一義的であり得なくなって、只距離はあるけれども、それは、アリアドネの糸に導かれる洞窟の中のさまよいのように、無限のさまよう面をもった時、それは二次元の空間が現われて来るのである。さまよいの不安、その広さの不安、無限の方向に距離が感ぜられる世界である。しかし、距離の感じが無限であるだけで、自分が動いてはいないのである。
 その自分が動いて、自分が方向の舵をもって動きつつ、距離感の中を動きはじめる時、第三次元が生れると云うのである。
 かかる考え方でもって空間を考える立場では、自分が自分を見ると云う本質的な視覚が出現する時、それは、空間を自分と自分との間の距離の出現として取扱うのである。「見る」と云うことがすでに、「生きた空間」をかたちづくって来るのである。
 ベッカーのこんな考え方は、所謂空間的アプリオリティから「距り」が生れるのではな
前へ 次へ
全5ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング