って、彼自身の無限の距離感を表現するとも云える。
 この絵画と彫刻、小説と演劇の両者の芸術的空間が、二次元性と三次元性の両性格をもっていることは興味あることであるが、この両者とも個人の自我が、自我との対決の距離感の上に構成されているのである。
 映画の場合は、その見る眼はレンズであり、それを描くものはフィルムであり、それを構成するものは委員会である時、この集団的性格との間の距離の上に成立していると考えられるのである。
 集団的制作者と、集団的観衆とは、只一つの人間群像であるにもかかわらず、歴史的時間は、未来への「問の記号」として、白いエクランを、その両者の隙虚の中にさし入れるのである。
 大衆そのものの、歴史の中に、自らを切断する、「切断空間」として、カットが、その白いエクランの前に答の試みをなすのである。
 ここではすでにゾルゲルのイロニーでは盛りきれないもの、弁証法的主体性が、その論理的根幹となって、新しいバトンを受けつぐべき課題を提出すると云うべきであろう。
 存在論学者であったかのルカッチは、かかる矛盾への苦悩から、弁証法の領域に入って行った人である。それは、今凡ての哲学の課題でもある。
 この個人の存在論で用うるところの、「不安と怖れ」の言葉のかわりに、「自分自身を否定の媒介とする」と云う考え方を入れかえる時、個人より集団への飛躍が初めて可能となるのである。
 この「媒介」の言葉が、メディウムと考えられて、エーテルが物質の「中間者」としてあるように、凡てのものを結びつけていると考える立場をとると、昔のカント流の形式的空間にかえってゆくのだが、「媒介」が「無媒介の媒介」として、自分を切って捨てることで、自分が発展すると考える時に、「不安」は「自分自身を否定の媒介とする」と云う考え方にかわって、新しい弁証法的な空間論を構成することとなるのである。
 カントの形式的空間を逃れようとして、今、哲学はもがいている。「生きた空間」のテーマは、芸術の空間論で大切なテーマであり、映画の空間論は今後の課題である。



底本:「増補 美学的空間」叢書名著の復興14、新泉社
   1977(昭和52)年11月16日増補第1刷発行
底本の親本:「美学的空間」弘文堂
   1959(昭和34)年11月
初出:「シナリオ」
   1951(昭和26)年1月
入力:鈴木厚司
校正:染
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