図書館法と出版界
中井正一

 終戦後、アメリカが図書館界に示した関心はまことに深いものがあった。その一つは国立国会図書館の設立であり、その二は図書館法の制定であり、その三は、図書館学校のためにアメリカの費用でアメリカ教師を遣わしたことである。
 図書館法は、昭和二十一年キニー氏の準備委員会に端を発し、ネルソン、バーネット、フェアウェザー等々のメンバーが自分の事のように世話をやいていたのであった。しかも我館界の理想はまことに高く、つまらない法案なら通すなという勢いであった。ところが、ショープ、ドッジ両案で形勢は刻々悪くなって行った。
 二十四年度に握りつぶしになったこの法案はついに、最悪の条件のもとに、二十五年度を迎えたのである。理事長の責務にあった私は、この二十五年度に提出の機を失したならば、永遠にその時を失うかもしれないと見たのであった。そこで、まず予算措置のない法案はいらないという館界の意見を伏せるべく、私は「法案の流線型化」(なるべく大蔵省、閣議、両院の抵抗を少なくするという意味で、ついには砲弾型とさえ、たわむれにそれを呼んでいた)をはかったのである。
 しかし、最後の線として、「補助金」の文字だけは法案の中に埋没して、時限爆弾としなければならないと考えたのである。「予算の範囲内において、補助金を行ないうるものとする」(英語では may)という文面でもって、法務省、大蔵省、閣議をすべりぬけたのであった。そのためには、文部省の新婚の事務官をカンづめにし、大蔵省へは日参したのであった。二十五年一月十五日には、全国の署名運動、二万名の請願、講演会、新聞宣伝等々、それは涙ぐましい戦いであった。しかし、私達の流線型は魚鱗の流線型の如く、ときに鱗の動きでふくらむ事を計算に入れていたのである。それは、まずC・I・Eで、次に参議院の文部委員会で、独特の「魚鱗の陣」をかまえたのである。
 補助金の「may を shall へ」という、文法学的なスローガンをもって臨んだのであった。そして、参議院でついに、単に「補助金を行なう」(shall)に変じ、G・H・Qをもそれでもって通し、参議院の委員会は、ベルが鳴り出したきわどいせと際で、すべり抜けたのであった。いわば五年越しの刀折れ矢つきた形ではあったが、法案通過のときはお互いに手を握りあった。
 考えて見れば、やせても枯れても、補助
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング