図書館協会六十周年に寄せて
――大衆に奉仕する一大組織体へ
中井正一

−−
【テキスト中に現れる記号について】

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]*『出版ニュース』一九五一年十月上旬号
−−

 ユネスコの国際的報告書を読むと、日本はイスラエルとパキスタンにはさまれて、日本は図書館に関して処女地 Virgin Soil であると書いてあるにすぎぬのである。
 私はこの数行を読むとき、いかにも敗れたる国のみじめな国際的取り扱いの地位を感じさせられたのである。
 一等国であったのは、軍艦「大和」と、「人間魚雷」だけであって、文化の組織としては、パキスタン級であると世界は見、一野蛮国扱いなのである。
 果たしてそうであろうか。しかも六十年の図書館の協会史をもっていてである。
 ここに私たちの反省すべき点があるのである。彼らが図書館というのは、公衆がつくった、公衆のための、公衆が主宰する図書館のことである。
 日本のこれまでの封建制の貴族の所有物であったとき、単にそれは財宝であって、人によって害せられず、水火で損ぜられないことがその主な目的であった風習がいまだ残っていたのである。
 まだ陽明文庫が、その形をもっているように、富豪の持ち物としての静嘉堂文庫、東京文庫すらその形式を追っていたのである。
 地方の中央図書館も、浅野文庫がそうであったように、それから転化したものがあったのである。
 この伝統のもとにあったものは、はるかに民衆の上に聳えたち、見下し、威厳を保っていたのである。
 欧州でも、この出発をもち、かの丸天井のロマネスクの教会風な威厳のコケ威しは、その残存物である。アメリカの国会図書館の旧館でも、レーニン図書館すらその残存物を残している。
 この伝統を、欧米はいち早く脱して、「文庫から図書館へ」の道を一九〇〇年代に蝉脱していったのである。
 日本は、それから立ち後れていったのである。協会はできていたが、会長と、図書館人との関係は、やはり大名と小名の身分関係の上に成立していたとも考えられるのである。
 ちょうどそれのように、本の多く、建物の大きく、歴史の古いのが大図書館として格が上であると考えていたのである。
 何ぞしらん、もし、公衆の利用の点からいうならば、この格は反対の場合もあるのである。何故ならば一度配列したら容易に
次へ
全3ページ中1ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング