集団文化と読書
中井正一

「金沢文庫」「足利文庫」などといっていたものが、「図書館」となるには、なんといっても、時代の流れを感ぜずにいられない。封建領主の財宝であり、庫の中に収められる所有物であったものから、大衆のサービスの対象となり、旅館のような、茶館のような大衆の共有物となる事は、大きな一つの変革であった。
 一つの都市に、喫茶店の如く二百の図書館が散在するというアメリカの図書館は、この大衆サービスのかたちの図書館の本質的なすがたというべきであろう。アメリカには、個人が五千、六千の蔵書をもつという事は稀であるという。図書館の方に「より完全な」「より便利な」蔵書が待っているというわけである。日本は今大体それに向いつつあるのである。(ところが大学図書館などでは、生徒への開架《オープンアクセス》を禁じはじめたのは滑稽な逆行ともいえるであろう。)
 このサービスとしての図書館に向いつつあるこの傾向、「文庫から百貨店のような図書館へ」の一九〇〇年代のスローガンは、五一年の段階で次の飛躍を試みつつある。C・I・E図書館が、本名はC・I・Eインフォーメイション・センターである事がそれである。それは本を読む機能を一歩進め、情報を集める中心、中央気象台と、その一環の組織体のような網の目となりつつある。
 国会図書館の綜合目録、(全国の図書館の目録を一カ所にうつしとるという二十五年計画)のような問題、また全国納本の目録カードを印刷して、全国図書館に安い値段で流す印刷カードの問題などはそのあらわれである。国会図書館は二十七の支部図書館(各省及び司法図書館、上野図書館、東洋文庫、静嘉堂文庫、大倉山精神文化図書館等)があって、四百万冊の本があるが、G・H・Qあたりから私の処に電話で問い合わせがあると、二十分間もすれば、十本の電話がこの二十七の図書館網になげかける問い合わせで、本が出て来る。これなどは、一つのインフォーメイション・センターのあらわれである。
 この機能では図書室、蔵書よりも、カードの精密な整備こそが大切なのである。ここでは読むことは、読む場所のスペースとか本の量を問題とするよりも、読む働きであり、読む機能を問題とするのである。カッシラーのいう「実体概念より機能概念へ」という考え方は、今正に、図書館界にあらわれたる新しい動向である。農林省にまだ図書室のなかった時、近藤康男氏
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