ろ、目に見えるようだが、これを源氏の「院より御気色あらむを」(澪標)などと云う用法とは見事に異ったものである。
 殊に面白いのは、太平記で「気」なる言葉と、「機」(仏教で法[#「法」に傍点]に対して、受身の自分[#「自分」に傍点]を意味する)なる言葉が、交流してどちらともなく、一つのものとして読み違えられて来るのである。
 例えば、
[#ここから2字下げ]
「気をつめて」(用例一)「機をつめて」(用例三)
「気を直して」(用例一)「機を直して」(用例一)
「気疲れ」(用例一四)「機疲れ」(用例四)
「気を失い」(用例一〇)「機を失い」(用例五)
「気に乗り」(用例六)「機に乗り」(用例五)
「気を呑まれ」(用例四)「機を呑まれ」(用例四)
「敵に気を附け」(用例三)「敵に機を附け」(用例二)
「気を屈し」(用例一〇)「機を屈し」(用例一)
「気の早い」(用例三)「機の早い」(用例一)
「気分」(用例三)「機分」(用例四)(有朋堂文庫本)
[#ここで字下げ終わり]
 これは写本でも幾らかの差があろうが、その用い方は幾分か気の方が心理的であり、機の方が時間の潮時と云った用い方をするのではあるが、ほとんど同一の意味に融合して用いられている。後に西鶴が「機の利いたる」と用い、頼山陽がこの両者を実に混用するのも、遠く淵源はここにあるかと云われる。
 これが、室町になって、軍事的なものから庶民的な用い方になり、『秋月物語』で初めて、「たひのようしん、きつかひはあるまし」の言葉にぶつかるのである。最早はっきりと個人の意識を反省し、その意識が自分であることを疑ってはいない。
 そして、秀吉の北政所への手紙に、「きづかひ候まじく」と出て来るのである。そしてこの庶民から上った秀吉の周辺には、実に多く用いられ、浪華文化では極めて大量に用いられてはいたものであろう。方言の記録さえ残っておれば、未だ未だ、さかのぼってその記録を辿ることが出来るであろう。
 近松の語彙にあっては、「気遣」は、その数に於て、用例二七一と云う余りにも文献的に爆発的となって来るのである。この爆発の背後に如何なる庶民の動きがあったか、和寇のような自由通商に如何なる関係があるか、ほんとうに、無限の言葉の読み違いの宝庫がありそうで、暇があれば、研究して見たいテーマである。
 又中国語としての「気」を日本語の「き」「け」が、
前へ 次へ
全7ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング