如何に読み違えたかは、又、東洋精神史の記録として面白いし、又言葉が如何に生きているかの好材料となるに違いないと思われる。
た・は・よ
私はこの「気」のカードを取扱っているうち、一つの奇妙な、学問に特有な病気に、憑かれて来た。
今から読んでいただくものは、、その病気の一つの報告である。秋夜閑語のつもりで、笑っていただきたい。
日本語としての「き」「け」を文字にする時に、中国語の「気」「家」等の漢字にあてるにあたって、「き」でも「け」でもない、中間音のようなものがあることを学んだのである。まさしく言葉の「音」そのものが生きて、その姿態をかえながら成長しているらしいのである。
一体、私達の云っている「き」「け」乃至ウムラウトのついたような「きえ」と云ったような言葉は、何なのか。それ自体が生きて、何か一つの意味をもってはいはしないのか。
爾来、日本の言語論は、「言霊音義解」式の、一つ一つの音に、言霊があって、それぞれ一つ一つの意味をもっていると云うのである。言霊さきはっているから、文字や符牒がいらぬのだと云うのかも知れない。
誰だって、こんなに云われると、暇を見つけて、恐る恐る、その冒険に出かけて見たくなるのである。以下富士の人穴探険の秋の読物めいて二、三記して見よう。
実は漢字渡来前の語彙の表をつくって、その組合せを五十音図表につくって、暇を見ては、パズルを解くように改めてゆくのである。
五十音の中から三つばかりここに例を挙げて見よう。
「た[#「た」は太字]」「一つの方向に直線に走っている力感」としての語感をもつものとして考えて見る。
「方」「手」(方向を指ししめす)「違」(方交う)「副」(手交う)「滝、激」(タギチ)「猛、高、焼〔驍?〕、嶽、丈、竹、感〔威?〕(タケル)」これらのものをじっと見ていると、同じ本質をいろいろの意味に展開しているかのようである。更に「たた」と重なった場合、「正、直、但、唯、徒」となるが、直線感が直線感に重なると、単調の意味を表わすものとなって来るのは、実に病をして篤からしむる所以である。「立、館、縦、楯」「起、発」は又、「裁、絶、断、太刀」と無関係ではなく、皆直線に走る力感に関係が深い。ドイツ語 durch の意味と語感を同じくする。この直線が振れると、「狂言(タフル)、戯、狂、倒」となるのである。こんなに辿ってゆけ
前へ
次へ
全7ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中井 正一 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング