えりての畏れ、自分の背後より襲いかかる悪寒の上にあらねばならない。なぜとも知れざる、みずから、みずからより隔てられたる「隔り」の意味、生ける生々しき空間(〔Ra:umlich−in−Sein〕)の上にあらねばならない。
 かかる意味で芸術史とは、永遠なる存在摸索の記録とも考えられるであろう。そしてかのギリシャでは、調和をもって存在の形相として受け入れた。ロマン派はこれに対して、天才の情熱の中にそれを求めた。それは異なる意味をもってながめられたる、一つの「青き花」である。これについて現代、「意味づけられたる時代」としての存在は、いかなる意味でそれを受け入れつつあるのであろうか?
 この「問い」はよき意味において、また悪しき意味において、一つの絵画の不安を構成している。私は、その両様の意味で受け取られるところの一つの警告をここに呈出し、また検討してみたいと思う。そは、かのル・コルビュジエのかかげたる一つの命題である。
「みずからを新しく形造るこの時代の生みの苦悩とは、みずからの深奥の中にひそむ調和[#「調和」に傍点]に対する衝動の確認にほかならない。
 おお、われらの眼よ、見よ、この調和こ
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